国泰寺の前身である新安国寺(しんあんこくじ)は、文禄3年(1594年)に、不動院の前身とされる牛田の安芸安国寺の住職であった恵瓊(えけい)が建てたと言います。彼は毛利輝元の片腕として活躍し、豊臣秀吉の信任も厚く、秀吉から六万石の領地を与えられたほどの人物でした。しかし、慶長5年(1600年)に関が原の戦いで西軍が敗れると、恵瓊は首謀者の一人として処刑され、毛利氏は萩へ移されます。替わって広島に来た福島正則は、弟の普照(ふしょう)を新安国寺に招き、寺号も国泰寺と改められました。
福島氏の後を継いで広島藩主となった浅野氏は、出身地の紀州から僧侶を招いて住職とし、ここを菩提寺として大切にしました。たとえば三代藩主綱晟(つなあきら)は、400石もの寺領を与えています。このような藩主の保護のもと、国泰寺は藩内140寺の中心となる大寺となり、境内の広さも1町7反(約130m四方)に及んだと言います。
この国泰寺は、広島築城当時の海岸線付近に位置していました。境内の愛宕池は、潮の干満によって見え隠れしていた岩を巧みに利用して造られています。「愛宕池」の名は、池のそばに国泰寺の鎮守社(ちんじゅしゃ)愛宕堂があったためと言われていますが、今ではその跡と思われる彫り込みが岩に残っているだけです。またこの岩は、岩盤が露出したもので、白神社の岩礁(がんしょう)と地下でつながっていると言われています。
昭和53年(1978年)、国泰寺は西区己斐に移転しましたが、その面影をとどめ、広島城下町誕生当時の遺構をそのまま伝えるものとして、この愛宕池は、貴重な存在です。
所在地:広島市中区中町7-6の一部及び中区小町10-1の一部
指定年月日:昭和59年(1984年)11月28日