建立年月日 昭和46年(1971年)8月4日
昭和13年(1938年)国民精神総動員法により、学校も戦争体制になりました。昭和16年(1941年)に呼び名も国民学校と変わり、現在の小学校にあたる初等科(6年制)と、中学校にあたる高等科(2年制)がありました。
戦争が激しくなると、初等科の3年生以上の児童は空襲を避けるため田舎へ強制的に疎開させられました。その結果、幼いため親元に残された1・2年生と、建物疎開作業に従事させられた高等科の生徒が原爆の被害にあいました。犠牲となった国民学校教師・子どもの数は、正確にはわかりませんが、教師約200人、子ども約2,000人と推定されています。
碑は、原爆によって生命を奪われた子どもと教師を慰めるとともに、「三たび原爆を許してはいけない」という平和教育を、現在及び未来に推し進める決意を表すもので、毎年8月4日には、遺族、広島市内の小・中学校の児童・生徒の代表、教育関係者が多数参加して、慰霊祭を行っています。
「太き骨は先生ならむ
そのそばに
小さきあたまの骨
あつまれり」
被爆歌人正田篠枝さんのこの短歌は、原爆の劫火の中で、教師を頼りながら死んでいった児童・生徒と、彼らを気遣いながら死んでいった教師の無念さを表現しています。
この近くの碑や施設など
広島市商・造船工業学校慰霊碑
平和の像「若葉」(湯川秀樹歌碑)