大大名毛利氏の新たな本拠地として
鯉城(りじょう)とも在間城(ざいまじょう)とも呼ばれるこの城は、毛利輝元(てるもと)が築いたものです。
毛利氏は、鎌倉時代に起きた承久(じょうきゅう)の乱(1221年)の時に功を成し、幕府から安芸国吉田荘(安芸高田市)の地頭職(じとうしき)を与えら れ、郡山城(こおりやまじょう)を中心に勢力を伸ばした豪族です。なかでも元就は傑出した人物で、戦国時代の乱世の中、山陰の尼子氏をはじめ各地の有力武士を倒して、中国地方に並ぶ者のない大大名となりました。
元就の孫輝元も、豊臣政権下で112万石の大名として大きな力を持っていました。彼は郡山城から、内海交通の要所で、政治的、軍事的、経済的に有利な太田川河口に本拠を移すことを決めます。当時、太田川河口は「五ヶ村」と呼ばれ、葦の茂る寒村だったと言います。輝元は、地元の豪族福島元長(もとなが)らの案内で、己斐(こい)山や二葉(ふたば)山などの上から検分し、その結果五ヶ村のうち最大の島「在間」の北部に城を築くことにしました。
困難をきわめた築城工事
天正17年(1589年)春、二宮就辰(にのみやなりとき)と穂田元清(ほいだもときよ)を普請奉行(ふしんぶぎょ う)として、築城工事が始まります。しかし、河ロデルタの低湿地に堀を造り、掘り上げ土砂で城地を高くする基礎工事は困難を極めました。築城に必要な材料も近くにはなく、石材は江田島や倉橋島などから、材木は周防(すおう)国(山口県)の浮島などからはるばると運ばなければなりませんでした。しかし約2年の歳月を費やしてこの難工事も一部完成し、天正19年(1591年)2月頃、輝元は新しい城に移りました。
城郭は、東西約992m、南北約1,010mで、中央には内堀で囲まれた本丸、二の丸、そして内堀の外側には一族の大名や重臣の屋敷を置いた三の丸、さらにその周囲に外堀が設けられており、太田川も天然の外堀として 利用されていました。中心となる本丸には、北半分に藩主が居住し政務をとる”御館(みたて)”があり、西北の隅に五重五層の天守閣を置いて、その東と南に 三層の小天守を連ねていたと言います。
また、築城工事と並行して、城の南側を中心とする町人町や水路、陸路の整備も進められました。これには輝元が各地から招いた大商人たちも参加し、整然とした碁盤目状の町割りが完成しました。ここに中国地方の政治経済の中心地となる新しいまち「広島」が誕生したのです。
広島の歴史とともに
輝元は、入城して10年もたたない慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでの責任を問われ、かわって福島正則(ふくしままさのり)が城主となります。福島時代の19年間、広島では物資の生産、流通が盛んになり、人口が増え、次第に町域も広がっていきました。しかしその福島氏も、秀吉恩顧の大名として幕府ににらまれ、城を無断で修築したことを理由に、信濃(しなの)国川中島(長野県)へ改易されました。その後を継いで広島城主となったのは、元和5年(1619年)に和歌山から移ってきた浅野長晟(ながあきら)です。以後、12代250年間にわたって浅野氏の藩政が続き、やがて明治維新を迎えました。
維新後、広島城は急速に姿を変えていきます。明治4年(1871年)には陸軍の鎮台(ちんだい)の分営が置かれ、明治27、28年(1894年?95年)の日清戦争の時には本丸に大本営が設けられるなど、太平洋戦争が終わるまで主に陸軍の施設地として利用されました。外堀も明治時代の末に埋められ、電車の軌道や宅地となっています。また、天守閣(旧国宝)や太鼓櫓(たいこやぐら)などが残っていましたが、それらも原爆によりすべて失われてしまいました。
しかし、昭和33年(1958)に、広島復興のシンボルとして、天守閣が鉄筋コンクリートで復元されました。さらに平成元年(1989年)には広島城築城400年を記念して、二の丸の整備が進められ、平成3年 (1991年)には表御門と御門橋が、平成6年(1994年)には平櫓、多聞櫓、太鼓櫓が完成しました。城の中心である本丸を守る機能をはたしていた、本来の二の丸の姿がこれにより蘇りました。
指定年月日:昭和28年(1953年)3月31日
概要:指定面積 118,019.33m2
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