不動院の盛衰
太田川沿いの牛田新町にある不動院は、安芸安国寺です。室町時代、足利尊氏(あしかが たかうじ)・直義(ただよし)兄弟が南北朝の戦乱で亡くなった武士達の霊を慰めるため、諸国に安国寺を建立した折、安芸国ではこの地に安国寺が置かれ、銀山(かなやま)城主武田氏の菩提寺として栄えました。しかし、大永年間の戦禍により伽藍が焼失し、一時は本尊の薬師如来も藁屋でようやく雨露をしのぐ状態であったと伝えられています。
これを再興したのは毛利氏の外交僧として戦国の世を生きた安国寺恵瓊(えけい)です。彼は、すぐれた判断力と行動力を備えた人物だと伝えられています。後には豊臣秀吉の信任を得て、秀吉の側近としても活躍しました。恵瓊は慶長5年(1600年)までの約30年間、安国寺の住持を務め、その間に寺内の建造物のほとんどを建立、再建して整備しています。安国寺が大寺となったのも、この恵瓊の力によるものと考えられます。しかし恵瓊は、関ヶ原の戦の後、西軍の首謀者の一人として処刑され、広島領主毛利氏も長州へ移されます。その後、安国寺には、新しい領主福島正則(ふくしま まさのり)の祈祷僧であった宥珍(ゆうちん)が入り、それまでの臨済宗から真言宗に宗派を変え、本坊に不動明王を安置したことから不動院と呼ばれるようになり、現在に至っています。
山口から移築された金堂
不動院の金堂は、大内義隆(おおうち よしたか)が周防国山口に建立した一堂を、恵瓊がこの地に移したものと伝えられています。天井に描かれた天女と飛龍の絵に「天文九庚子年(1540)……」と書き入れられていることから、おそらくその頃に建てられたものと考えられます。この金堂は、現在国内に残っている禅宗様の仏殿の中では最大規模のものです。海老虹梁(えびこうりょう)、大瓶束(たいへいづか)の彫刻や、軒下の組物など細部も巧みにできていて、雄大な中にも繊細さをうかがわせる建物です。また、正面一間通りが吹放しになっていること、内陣の鏡天井(かがみてんじょう)が前後二つに分かれていることなど、他の禅宗様仏殿では見られない特徴も備えています。
指定年月日:昭和33年(1958年)2月8日
概要:桁行三間、梁間四間、一重、裳階付、入母屋造、こけら葺