國前寺本堂(こくぜんじほんどう)(重要文化財)

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國前寺本堂(こくぜんじほんどう)(重要文化財)

國前寺は、広島駅の北側の二葉山のふもとにあり、古くは門前まで海岸が迫っていたと言います。
南北朝時代初期の暦応3年(1340年)、日蓮の弟子日像(にちぞう)に師事した暁忍(ぎょうにん)が開いたので、当時は寺の名前を暁忍寺と言いました。
その後、江戸時代初期の明暦2年(1656年)に、2代藩主浅野光晟(みつあきら)正室満姫(まんひめ)(自昌院(じしょういん))が菩提寺としたことから、寺領200石を拝し本堂を満姫が、庫裏、客殿、山門等の諸堂を光晟が建立一新し、寺名も自昌山國前寺と改めました。
当時は、幕藩体制を確立させていくためにさかんに政略結婚が行われている時期であり、満姫もその例外ではありませんでした。そのことは、父親に加賀百万石の藩主前田利常を、母親に2代将軍徳川秀忠の次女珠姫(たまひめ)をもち、叔母は豊臣秀頼の正室千姫で、叔父の3代将軍徳川家光の養女として輿入れをしたことからもわかります。
その満姫が、広島に数ある寺院の中からこの暁忍寺を菩提寺に選んだのは、母や祖母の菩提寺であった加賀の妙成寺(みょうじょうじ)(石川県)を開いたのが同じ日像だったことを考えると故郷の母や祖母を慕う思いが伝わってくるようです。
寄棟造(よせむねづくり)、二重屋根の堂々とした本堂は、残されていた棟札より寛文11年(1671年)の建築であることがわかっています。向拝(こうはい)を除いて、上下層とも組物は用いていません。背面には、後ろに突き出たように仏間が取りつけられ、その屋根が寄棟造で錣葺(しころぶき)(屋根の途中で区切りをつけ、段になっている屋根の葺き方)となっている外観が非常に特徴的です。
また、耐火のために外壁を土塗とした構造物を塗籠(ぬりごめ)と言いますが、本堂はこの手法を取り入れて外壁を白く塗っています。これは、もっぱら城郭建築や土蔵造などで用いられ、寺社建築では全くといっていいほど見られないものです。その上、全体的に見て無骨で頑丈な造りや、向拝唐破風(こうはいからはふ)上の本瓦葺が谷無しで吹き下ろしている手法から見ても城郭建築を彷彿とさせます。この建築が藩のお抱え城大工の手によるものということもわかっていることから、本堂は城郭建築の技術をもって建てられた寺院建築であると言うことができます。
日蓮宗の本堂は西日本ではあまり古い遺構は残存していませんが、その中にあって、國前寺本堂は規模も大きく、堂々としたものであり、保存状況も比較的よく、大変貴重な建物であると言えます。

指定年月日:平成5年(1993年)12月9日
概要:桁行24.0m、梁間14.0m、二重、寄棟造、唐破風造向拝一間、背面仏間突出桁行5.3m、梁間9.8m、一重、寄棟造、本瓦葺

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