伝福寺の開基については、詳しいことはわかっていませんが、「知新集」に元和5年(1619年)の旧記に中島伝福寺の名がみられると記述されていることから、位置的にも考えて、毛利輝元の広島城築城に際して広島の地に移されてきたものとも考えられます。
その後、当寺は昭和20年(1945年)の原爆の爆心地である中島地区周辺が、戦後の復興の中で平和記念公園として整備されることとなったため、現在の地に移ってきました。
当寺が所蔵する木造菩薩坐像(もくぞうぼさつざぞう)は、その菩薩名を詳らかにすることはできませんが、頭に宝冠を載せ、左手には未開敷の蓮華を持つ姿は、一般的に古代インドの貴族階級の姿を基本にして、如来と違って持物やにぎやかな装身具をつけているものが多い菩薩の典型的な姿となっています。
なお、この像の膝裏には巻子を巻いた軸が打ちつけてあり、これには次のようなことが墨書で記されていました。
加うさい/みよせん
ちよめう/もん志ゆ
慶長拾九年/二月廿一日 西雲
この銘文の中の「もん志ゆ」と左手に蓮華を持っていることから考えてみると、本仏像は文殊菩薩とも考えることができます。
この仏像の高さは約26cmと小さなものですが、人名、造像年月日が明らかな点で価値が高く、仏像彫成年代の技法を知る上で貴重なものです。