頼家の墓(らいけのはか)(県史跡)

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頼家の墓(らいけのはか)(県史跡)

比治山の麓にある多聞院(たもんいん)の裏手に、頼山陽(らいさんよう)の両親である頼春水(らいしゅんすい)、梅(ばいし)夫妻をはじめ、叔父 杏坪(きょうへい)、子 聿庵(いつあん)、孫 誠軒(せいけん)など、頼一族の墓が並んでいます。
頼家は竹原の豪商紺屋の出身ですが、「三頼」と呼ばれる春水、春風(しゅんぷう)、杏坪の三兄弟、春水の子山陽、その子聿庵など、いずれも学者として名をあげています。
春水は大坂で儒学を修め、私塾を開きましたが、天明元年(1781年)、七代藩主浅野重晟(しげあきら)が広島藩学問所を開く折りに招かれて教授となりました。彼の妻 梅も文学、特に和歌に秀でていたと言います。春水の弟 杏坪も、大坂で儒学を学んだ後、天明5年(1785年)藩学問所に登用されました。彼は文化10年(1813年)頃から郡代官、郡廻り、三次町奉行などを歴任して行政の上でも実績をあげ、一方では修史局を統括して藩内の地誌『芸藩通志(げいはんつうし)』159巻の編集にあたるなど、地方文化の向上に尽くしています。また山陽の子 聿庵は、父が脱藩したため春水夫妻によって育てられ、後に藩校の教授になりますが、詩を好み、能書家であったと言います。
なお、頼山陽の墓は、京都市東山区長楽寺にあります。

指定年月日:昭和15年(1940年)2月23日

その他の情報

アクセス情報 広島駅から広島電鉄電車「比治山下」下車徒歩1分