広島における儒学は、藤原惺窩(ふじわらせいか)の門下生である堀杏庵(ほりきょうあん)(1585年?1642年)によってまず朱子学(しゅしがく)が広められます。他の学派は、これよりやや遅れて藩内に広まりますが、植田艮背が伝えた*神儒学(しんじゅがく)(垂加神道(すいかしんとう))もそのひとつでした。
艮背は本名は成章(なりあき)と言い、慶安4年(1651年)京都に生まれました。17歳の時にはすでに諸子百家の書を講じたと言われ、19歳の時山崎闇斎(やまざきあんさい)の門下に入りました。天和2年(1682年)に、同門の友人楢崎正員(ならざきまさかず)から広島に招かれますが、師闇斎が危篤であったため断ります。しかし、これを聞いた闇斎に「汝の老母堂に在り、家貧にして親老う、我が病を心と為し養親の大義を忘るなかれ」と勧められ、同年9月広島に来往したと言います。
広島に移った彼は、客舎で武士や庶民に講義を行いました。これを喜んだ四代藩主綱長(つななが)は、元禄3年(1690年)、彼を城中へ召して会見し、その後新川場(しんせんば)(中区中町周辺)に屋敷を与え、30人扶持(ぶち)をもって藩儒として召し抱えました。広島藩の中興の主と言われた五代藩主吉長(よしなが)も、正徳5年(1715年)には200石を与えて優遇しています。
艮背は享保12年(1727年)に辞職しますが、その後もしばしば講席に臨み、85歳で没しました。この学統は、その後も加藤友益、友徳父子らによって伝えられました。
*山崎闇斎が創始した神儒一致の思想。神の道と天皇の徳とが唯一無二になることを説いた。
指定年月日:昭和17年(1942年)6月9日