標高413mの木の宗山の中腹にある烏帽子岩の下あたりから銅鐸(どうたく)、銅剣(どうけん)、銅戈(どうか)が出土しています。
これらは、福田の光町尽三郎氏が夢のお告げによって、明治24年(1891年)に発見したと伝えられています。烏帽子岩の近くに、比較的扁平で人為的に工作した跡のある花崗岩があり、その下に木炭がつまっていたそうです。そこから銅鐸、そして25cmほど離れたところから銅剣、銅戈が出土したと言われています。この時浅い丸底の土器も出土したそうですが、これは残されていません。
木の宗山と同じように、弥生時代の青銅器は多くの場合、意識的に集落から離れた丘陵斜面や山陰に埋められた状態で発見されています。しかしその場所を石で囲ったり、石をかぶせたりして目印にすることはほとんどなかったらしく、このように立石の下から発見されるのは珍しい例です。
なぜこのような場所に埋められたのかについては諸説がありますが、日常生活から離れた聖域と思われる場所に意図的に埋められていること、全国的に同じような場所から発見されることなどから、様々な祭祀(さいし)を行う時だけ一時的に取り出して使用するためとも考えられます。
この出土地の眼下には福田地区の平地が広がっています。遺跡は見つかっていませんが、弥生時代には、ここにも集落があったのでしよう。これらの青銅器は、そこに生活していた人々が様々な儀式に使っていたのかもしれません。
所在地:広島市東区福田町
指定年月日:昭和31年(1956年)3月30日