建立年月日 昭和42年(1967年)7月15日
政府は労働力の不足を補うため、昭和19年(1944年)8月に学徒勤労令を発し、中学生以上の生徒は軍需工場等での勤労奉仕が強制されました。また、 11月には、空襲による延焼を防ぐため、民家などの建物を取り壊し防火地帯をつくる建物疎開作業にも、多くの生徒が動員されました。
広島市内でも被爆当日、市内で建物疎開作業を行っていた国民学校高等科以上の生徒約8,400人のうち、約6,300人が犠牲となりました。また市内の各事業所に出ていた多くの学徒も犠牲者となりました。
戦後、政府は、原爆や空襲などで亡くなった動員学徒のうち、氏名・死亡日等の判明した者に限り靖国神社への合祀(一つの神社に一緒にして祭ること)を認めました。この塔は、それを受け、名簿作成運動を始めた遺族による募金によって建てられたものです。
この近くの碑や施設など
原民喜詩碑(佐藤春夫の詩碑の記)
花時計